ネットで興味深い記事を見た。平安時代のお坊さんの生まれ変わりのと言う人が、当時の生活をリアルに書いていた。真偽のほどは詳しい人に任せるが、その一節に仏教について書いたものがあり、僕はそれがとても興味深かった。
平安仏教を一言で表すと
— マグロジュース (@magurojuice) 2018年1月16日
クリエイティブ
センスの溢れる坊さん達が自由に、新しい仏教を作っていた時代。
今みたいに伝統を受け継ぐ保守的感覚はあまり無くて、創造的。仏教建築も芸術も思想もアップデートしまくって自分たちで解釈して作るの。楽しいよ。
平安時代は今のように「仏教が歴史上の古いもの」というイメージじゃなかったという。今の音楽や芸術のように、常に新しい考え方、表現の仕方を開発していたようだ。そこにたくさんの人が信仰の対象として参加してくるのだから、とてもダイナミックで布教する方もアドレナリンドバドバだったことだろう。明日には時代が変わる。毎日の夜明けとともに、新しい時代の幕開けを叫んでいたんじゃないかな。
急に小室さんの話になる。
小室哲哉さんが芸能界を引退するという。
叩くことで安心する人たち
経済が弱って来ると、他人を叩きたくなる人が増えてくる。自分より下の人を見つけて安心する。自分はまだ大丈夫だって。でも、自分の生活に何も関係ない人を叩いても、自分のいる位置は変わらない。下に穴を掘っていくようなもので、ああまだ自分は上にいると錯覚する。あとはその穴に自分も落ちなければいいなー、くらいの感覚。もし落ちたらまた下に穴を掘ればいい。こうして、人を叩くことを覚えたら、ちょっと自己満的優越感にひたりながら、永遠に落ちていく。人の不幸を見て自分の方がまだマシだと思う人と、なんでもいいからネタにすればメシが食える人がいる限りこのサイクルはなくならない。
僕たちは別にそれに対して特に言う必要も付き合う必要もなく、ただその穴からそっと離れればいいだけだ。他にやるべき事、楽しいことがたくさんあるのだから。
責任は取れない
ただ、個人的には「責任を取って辞める」というやり方が心底嫌いで、「責任を取れないから逃げる」だと思っている。いろいろな不祥事を起こした会社や、政治家、団体などの幕引きはだいたいこうだ。辞めても責任を取ったことにならない。現実は全く改善されず、放置される。ならば、「これこれこういう対策を取り、絶対再発しないように改善します」と言えばいい。そうすれば辞める必要はないわけだけど、そんな頭や力はない。辞めることしかできない。これも一つの保身である。
小室さん
ちょっと話が逸れてしまったので小室さんに戻す。小室さんも「責任を取って」芸能界を辞めてしまうのだけど、やはりこれでは逃げになってしまう。僕やみんなが小室さんに期待し、求めているのは辞めることじゃない。スーパーカッコいい音楽だ。
こんなに書いておきながら僕は小室さんについてあまり詳しくはないのだけど、想像を絶するような大変な境遇にいたのだろうと思う。時代に合った音楽がつくれているか、からだは保つのか、身の回りの沢山の問題も抱えて。そんな弱ったところを、穴掘り名人の叩き屋に目をつけられてしまった。そして、小室さんが引退するのは、多分もう一つ理由があって、もしかしたら芸能界に限界を感じていたんじゃないかなと思う。それは自分の能力と体力、精神力とか、個人の問題とは全く別の問題があるように思えてならない。
光はさしている
しかし、僕は少し光が見えているように思っている。小室さんが芸能界を引退することで、足を引っ張っぱる連中や、叩き屋の目から逃れられる。もう世間の目を気にしなくてもいい。時代に合った音楽なんて作らなくていい。誰かの期待に答え続けて自分を殺す必要はない。いつまでも「小室哲哉」でいる必要はない。都会の雑多でぐちゃぐちゃドロドロの穴で足を取られて沈んで行くなんて御免だ。
芸能界から去った小室さんが、僕は少し楽しみでもある。平安時代のお坊さんたちのように、新しい音楽をつくりだして欲しい。誰にも知られない場所でいい。静かなところで、密かにつくり続けて欲しい。本物の才能をうちに秘めた小室さんが、心から自由に作る音楽。今みたいにしがらみや、名前に縛られたり、保守的な考え方ではなく真に創造的。音楽づくりの環境や手法、思想もアップデートしまくって、小室さんが新しく解釈した楽しい音楽をいつかどこかでまた聴きたい。きっとやってくれると信じている。音楽家は永遠に音楽家だからね。