代々木ではたらく

これからの働き方を考える

比較しなければ幸も感じない、

幸せとは何か?どうやったら幸せを感じられるか?っていうよくある問いの、よくある解答は「人と比べない」なのだけど、何かと比較しない限り、幸せも不幸せもどちらも感じることは無いんじゃないかと思っています。

ツイッターフェイスブックもインスタグラムも、他人と自分を並べてどうこうみたいな様子です。だとすると、NSN全般的に幸か不幸かを測定する機械ということになるんじゃないかと感じています。少なくとも僕がそう思ってしまっている時点で、僕にとっては不幸製造機になっています。僕はSNSをきちんと使えていなかったのです。情報収集や、知見収集に使うことができる人ならば、不幸を製造することなく、知識共有の最強の場となるかもしれません。ものは使いようということでしょうね。インターネットは正も負もレバレッジがめちゃくちゃかかります。だから面白いのですけども、僕にとっては、最近どうも暗黒面が多いいように思います。辛いですね。

 

こんなツイートを拝見しましたよ。

 

そうそう。こんな感じで、ネットがなければ絶対に知らなかったであろうこともリアルタイムで知ることができてしまいます。上を見ればきりがありませんからね。そして、今の東京は深夜まで働かないし、別に激務じゃないし、金もまぁまぁあるし、そういう人はだいたいみんな優しいから普通に幸せなんですよね。

 

おそらく僕は、ツイッターフェイスブックもインスタグラムも全てやめてしまえば、かなり幸福度は上がると思います。「幸せは相対的なものだ」という話も聞きます。自分より不幸な人をみれば自分はまだマシと思う。預金金額を比べたり、職業や家、車を比べて自分が優っていれば幸福を感じる。幸せを感じるためには比較対象が必要なのです。戦国時代はみんな不幸を感じていたのか?「スマホが無くて不便だ」とか言っていたのか?といえばそうではありませんよね。何と比べるのかで幸か不幸かを感じるのです。

 

しかし、「自分は他人と比べて落ち込むようなアホではない」と思い続けてきました。が、どうやらそれは思い込みだったようです。僕も知らず知らずのうちに他人と自分を比べ、常時ダウナーな気持ちでいたのです。家や車や預金が欲しいわけではありませんが、自分は人よりも優れているのか?という問いは常にあったように思います。

 

それに気づいたのは、ちょっとSNSから離れた瞬間があったからでした。いつもなら15分に1回ツイッターを徘徊しています。もっとかもしれません。10分以上スマホから目を離すことはないと思います。スマホってめっちゃいい機械ですよね。興味が尽きません。しかし、ここ数日仕事ばかりやっていたせいで、ほんのちょっとだけスマホへの興味が薄れました。今やっている仕事にフォーカスしなければと。かっこよくいえば「自分との戦い」だと。誰との戦いでもない、誰も助けてくれない。自分がやるしかない。そこに他人が介入する隙間などなかったのです。

本当はそれでいいはずです。誰とも戦う必要はない。比べる必要は無いのです。他人と比べることで分かるのは相対的な価値です。自分の絶対的な価値が上下するわけではありません。でもなぜかそこに一喜一憂してしまう。まだまだ僕も修行が足りませんね。しかしながら、比較しなければ幸も感じないものです。南の島でゆったりカクテルを飲みながら夕陽を眺めるのは幸せでしょうか?それ単体だとただの事実です。東京の満員電車で消耗する人と比べると、幸せかもしれません。もし、大好きな女の子と、、いや、この例はやめておきましょう。

 

ともかく「何かと比較しない限り、幸せも不幸せも感じることは無いんじゃないかと思っています。」冒頭の問いかけです。戻ってきました。ここまで考えてきて、1つプロセスが足りないことが分かりました。比較した後、それを自分がどう受け取るかということです。単純な比較では幸も不幸も無い。自分の価値観フィルターを通して「幸」と「不幸」どちらにわけるか。それを自分が決めるように心がければいいんじゃないでしょうかね。このフィルター作業も他人任せにしてしまうと全てが「不幸」の方に分類されてしまうと思います。ぜひ、自分でフィルタリングしましょう。誰に遠慮する必要もありません。わがままにやって大丈夫です。

 

まったくめんどくせーやつだな。