代々木ではたらく

これからの働き方を考える

人間のスペックを決める決定的な違い、

こんばんは、よしけです。東京はとてもいいお天気でしたね。理想的な休日です。こんな日は牧草でもはみはみして、ぼけーっと草原を散歩していたいところですね。でもそこに放火魔が現れました。炎上エンジョイ勢の田端さんがまた話題を提供してくれました。熱い。炎上しても残る人と、灰になって風に散る人の違いは「芯」があるかどうかだなーと思う今日この頃です。辻ちゃんとかずっと燃え続けていますもんね。彼女は芯があるんですよ。ぼく辻ちゃん大好きです。

 

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田端さんのことは上記を読んでいただくとして。

 

「好きなことで生きていく」という人たちがでてきて久しい今日この頃です。ここ数年、好きに生きている人と、好きなことで生きていけない人たちとの意味不明な戦いが日夜繰り広げられています。後年に語り継がれそうな歴史的な戦いになりそうですねw。田端さんの炎上もこれの一端のように思いますし、日大のタックル問題にもつながっている気がします。ようは、「自分の人生を自分で決める人」と、「自分の人生を他人に決めてもらう人」の論争だと僕は思っています。この両者には深い溝があって、一生分かり合えないんじゃないかなーと思います。

 

「自分の人生を他人に決めてもらう人」というのは何か不具合があった場合、すべて他人の責任だと思ってしまいます。他人が決めたことに従って生きていますからね。お金がないのは経済のせい、仕事がないのは国のせい、彼女がいないのは出会いがないせい、交通事故は相手のせい。とかね。ぜーんぶ他人が悪いんですよ。

逆に自ら考えて自ら動いている人は何か不具合があっても他人の責任とは思いません。すべて自己責任。自分が決めて動いていますからね。貧乏なのは自分が動かないからだ。仕事がないのは自分が勉強しなかったからだ。彼女がいないのはアッピルが足りないからだ。交通事故にあったのは自分が不注意だったからだ。全ての事象で「自分が」という自分ごととして主観で捉えています。「そうなったら嫌だから、どうにかしよう!」と思って先に手を打っていきます。「どうにかしてくれ」では何も変わりません。この考え方の違いが、人間のスペックを決める決定的な違いとなっているように思います。

 

「自分の人生を自分で決めるかどうか」というのは「決めることが可能かどうか」ではありません。能力的に可能か不可能かという「できる or できない」の問題ではなく「やる or やらない」の問題です。これは誰にでも選択可能な問いですから、自分以外のだれからも強制を受ける類のものではありません。よく、「あの人はいい、でも自分はそんな能力はない」と言っている人を見かけますが、全くの見当違いです。能力の有無で言うなら、人間として生まれた時点で、自分の人生を誰が決めるかを選択することができます。なんども言いますが、それは自分にしかできないことです。他人が言ったからこうしました、なんて言い訳も甚だしいですよ。脳みそ入っているんですか?「上司ガー」とか泣き言いってもらっても構いませんが、言われた後、自分の脳みそで考えましたか?最終決定は自分でするのですよ。それが人間ですよ。わかりましたか。